●安芸の産業史から
安芸市の商工業・歴史と現在
| ■林業を中心とした成り立ち |

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藩政時代、安芸の主要な産物は、木材・薪・木炭と、ほとんど北部山間地から産出される林産資源からなっていました。 当時の物流の要は市内東部に流れ込む「安芸川」「伊尾木川」の2本の河川で、遠く上流から筏を組んで運ばれてきた商品を、 河口の「船場」と呼ばれる集散所で船に積み替え、大阪市場へと送っていたのでした。 これらは、その頃の藩財政を支える基幹産業であったばかりでなく、豊富な海運需要によって、豪商と呼ぶにふさわしい地場の商家を産み出し、経済発展の大きな礎石ともなっていきました。まさに安芸の商工業は、この林業の上に産声をあげたといって過言ではありません。 明治期以降、殖産興業の機運はいっそうの木材需要を生み、山国四国の中でもさらに豊富な資源に恵まれた高知県東部一帯は、 大正期を頂点とする林業景気の恩恵を十二分に受け、集散地である旧安芸町に空前の繁栄をもたらしたのでした。 |
| ■繁栄を支えた先人の努力 |

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もちろん、こうした繁栄は、ひとり時代の流れだけによっても たらされたわけではなく、そのために努力したさまざまな先人の汗のたまものでもあることを、忘れるわけにはいきません。 今、安芸商工会議所の西側に、杉本邦利翁の彰徳碑が立っています。 杉本翁は、その生涯を、安芸の主要生産品目である木炭の品質向上と販路拡大に捧げ、県による品質検査制度の制定、生産技術の研究などを通じて、ついには全国にその名をとどろかせた「上土佐白炭」の産出に成功しました。 これは、今で言う所の「ブランディング」と「高付加価値化」による、「オンリーワン商品」の開発にあたります。 杉本翁はその後も安芸町長をはじめさまざまな要職を務め、木炭事業振興によって培われた才能を道路舗装や下水道工事といった困難な事業にも発揮して、安芸の町の生活水準の向上をはたしていったのです。 |
| ■産業構造の転換と地場産業の変遷 |

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太平洋戦争をはさんで、日本の政策も大きく変わります。戦後 しばらく続いた原木価格の高騰も、輸入の自由化が進むにつれて安い外材に押され、林業自体が徐々に赤字産業へと転落していかざるをえなくなりました。 また、エネルギー政策の転換により、石炭や木炭は石油燃料にとってかわられ、一時期を築いた林業王国も、次第に衰退への道 を歩み始めます。 しかし、一方では、工業都市への人口の集中、大量生産・大量消費型社会の到来、物流環境の改善が進む中、それまで農家の余技とみなされていた園芸作物への膨大な需要が生じ、安芸地区を中心として、温暖な気候とハウス技術を活かした農業が、新しい地場産業として脚光を浴び始めました。 園芸王国の誕生です。海運業の衰退と裏腹に、陸運業が発達、安芸産のなすやピーマンを満載したトラックが、大都市の顧客のもとに、新しい富を届けるようになっていったのです。 かつて山仕事の人達が担っていた域内消費を、今度は農家の人達が担うようになりました。しかし、田舎から都市への人口流出 という大勢はくつがえすべくもなく、安芸の経済は、ゆるやかな 衰退曲線を、今も描きつつあります。 |
| ■次の時代への道探る商工人と商工会議所 |

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歴史は人が作ります。私達商工人は、明日の繁栄を築くために力を尽くし、地域の発展を願って商工会議所に集っています。 そして今ふたたび、情報産業の急展開という、新しい産業構造の転換期を迎えています。 歴史に道を尋ねるならば、かつての杉本翁のように、この変革の時期に着実に成果を結べる人材、汗を流し、明日のためにたゆまぬ努力を惜しまぬ人材を守り育てていくことにこそ、私達の使命と存在理由があると、考えざるを得ません。 これはただ、商工人の範囲内だけで解決する課題ではありません。一次、二次、三次産業といった枠をとりはらい、地場産業全体の課題として、ともに手を携え取り組んでいくことを、私達は 躊躇しません。 消費が変わり、生産が変わろうとする今、私達はこれまでの地域の歴史の上に立って、新しい時代の繁栄のために、みなさんとともに邁進できる商工会議所でありたいと考えています。 |
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