●安芸生まれの経済人

安芸市は今までにも幾多の経済人を輩出してきました。
岩崎弥太郎(三菱創始者)

 岩崎弥太郎は1834年(天保5年)12月11日、井ノ口村一ノ宮(現安芸市井ノ口)に生まれました。

 先祖は、当時「郷士」と呼ばれた下級武士で、武士とはいいながら農業を生業としていました。生来気性が荒く、地元でも権太と呼ばれる悪童であったといいます。

 それでも、地元の塾で和漢の学識を収めたのち、高知城下に出て岡本寧浦など時の碩学の元に学び、21歳から江戸で1年留学を経験しています。

 26歳、藩庁に郷廻り役として出仕、のちに土佐藩の商社「開成館」の長崎出張所・大阪出張所の主任を経験し、幾度かの罷免や左遷など、苦難を経験しつつ、ここで実業家としての基礎を身につけます。

 廃藩置県が断行された時、弥太郎は開成館の経営権を譲り受け、商人として生きていくことを決意、これが後の海運事業を柱とした、大三菱の基盤となりました。

 そののち、弟弥之助とともに外国航路での事業拡張や国内航路での激しい事業競争を勝ち抜くべく奮闘する中、激務のために健康を害し、明治18年2月7日、この世を去りました。

 その生家は今も当時のままに保存され、そこから見上げる妙見山の頂上には、かつて弥太郎が青春の覇気を示すべく「我志を果たさずんば再び還りてこの山に登らじ」と大書したと伝えられる上宮が、安芸の町並みを見下ろしています。

井内彦四郎(関西急行電鉄=のちの近鉄=代表取締役)

 明治21年1月4日、川北久保田に生まれた井内彦四郎は、旧制安芸中学校を経て東京高等商業学校(現一ツ橋大学)に進学しました。

 卒業直前、豊川良平(三菱総本社最高幹部・岩崎弥太郎の従弟)から三菱への入社を要請された彦四郎は、「もうできあがってしまった会社でなく、日本一のぼろ会社に入れてください」と答えました。

 意気に感じた豊川良平は、関西財界で力のあった高知県高岡郡葉山村出身の片岡直輝を紹介し、その世話でとりあえず近江銀行に彦四郎を就職させました。

 ほどなく彦四郎は片岡に呼び出され「お前にぴったりのぼろ会社だ」として、大阪電気軌道株式会社を紹介されます。これには彦四郎もおどろいたそうです。

 というのも、当時大阪から奈良へと伸びていたこの路線は収支が非常に不安定で、赤字を出しては生駒大社の賽銭を借りて支払をまかなうという、なんとも不思議な鉄道会社だったからです。

 この話を聞いた豊川は彦四郎に対し「それなら、奈良から東へ一直線に広軌の超高速電車を走らせよ」とけしかけました。

 当時、奈良から東はこれという町もなく、その無人にひとしい山中にどういう気持ちで延々線路を伸ばしていったのでしょうか。しかし彦四郎は苦難に苦難を重ねて奈良から伊勢まで、そして名古屋まで路線を延伸し、現在の近鉄を作り上げたのでした。

影山光一(近鉄代表取締役)

 明治37年1月27日、旧安芸町西浜生まれの影山光一は、旧制安芸中学校を在学総平均点98点という驚異的な成績で卒業し、東京帝国大学工学部に進学しました。

 そののちイギリスに渡り、電機会社の実習生(実質は工員)として働いたあと帰国、同郷の先輩である井内彦四郎の推挙によって参宮急行電鉄(のちの近鉄)に入社しました。

 光一はイギリスでの工員経験を活かし、現場の判る技術者として、車両修理の先頭に立って車両故障発生率を引き下げるとともに、新型高速車両を設計するなど、近鉄の技術的な側面を担う人物となりました。

 戦後は特急列車の導入、コンピュータ予約システム、冷房車、シートラジオ、車内講習電話などの技術的な最新のサービスを、国鉄や他の私鉄に先駆けて実施、日本の鉄道近代化の旗手としての地位を確立しました。

 光一は彦四郎とともに現在の近鉄を育て上げ、同時に、日本と世界の鉄道史を切り開いていった人物として、今も人々の胸にその足跡を刻まれています。

 

(参考文献「戦国武将 安芸国虎」岡林幸郎著・安芸本町商店街振興組合刊・1999.12.22)

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